私的真面目備忘録

真面目な部分を残したい。

自殺は逃げだと思う

私の父は自殺しました。

昨年、テスト期間の真っ只中に知らされた突然の訃報に私がまず抱いた感情は「悲しみ」でも「驚き」でもなく体の力が一気に抜けてしまうほどの「呆れ」でした。

 

父と母の関係はとても良いとは言えないものでした。

家族全員でのお出掛けも父と母が言い争っていることがまず思い出されます。

息が詰まるような沈黙に押し潰されそうになりながら、じっと黙って後部座席に座っていたことが今でも思い出されます。

仲は良くなかったけれど、2ヶ月に1度大喧嘩をする以外には特に困ったことはありませんでした。

最も、父は怒ると物に当たる質だったため、壁がへこんだり、テーブルに穴が開いたり、クローゼットが壊れたりすることはありました。

パパっ子だったはずの私にとって、いつの間にか父は従わなくてはいけない怖い存在になっていました。

母が家にいないときには父の顔色を伺いながら母の代わりを務め、それでも時たま激しく叱られることがありました。

私の中で父に対する憎しみが生まれたのはこの頃からだったと記憶しています。

 

そんな日々が終了したのは、まだ春の訪れは遠い2月のことでした。

突然父が会社を辞め、2週間ほど姿を消したのです。

この春から高校への進学が決まっている私と同じく春から中学生になる妹を抱え、母は途方にくれていました。

父の会社の人間が毎日のように家に訪れ、父の居場所を尋ねました。

私たちにもわからないのに。

父が会社を辞めた理由は「社長と反りが合わないから」だと聞きました。

5人の家族を支える大黒柱がそんなに簡単に仕事を辞めるのか、と驚いたことを今でも覚えています。

反りが合わないことは勤めていく上でかなりの障害になることは承知していますが、一端の大人なら転職先を見つけてから辞めるのが筋なのではないか、会社を辞めるときに私達家族のことを考えていたのだろうか、父に対する怒りの感情が私のなかで沸々と煮えたぎるも、やはり父は私にとって本当に怖い存在で面と向かって非難することはできませんでした。

 

父は仕事を辞めてから約半年間完全に無職でした。

これでは家族が暮らしていけないと危機感を感じた母はパートを辞め、正社員としてフルタイムで働き始めました。

それだけでは足りないと、夜にはコンビニで働き、朝に帰ってきては疲れた顔で朝ごはんを作ってくれたのを思い出す度に今でも涙が止まらなくなってしまいます。

母は誰の目から見ても明らかに窶れていきました。

そんな母を横目に毎日朝から酒を飲んで煙草を吸って一日中テレビやら暖房やらをつけっぱなしで過ごしている父が憎くて憎くて仕方ありませんでした。

「お前なんか死んでしまえ」と心の中で幾度となく唱えました。

忙しい毎日でも母はご飯をきちんと作ってくれました。それなのにそのご飯を「こんなもの食えたもんじゃない」「あいつはバカだ」などと自分のことを棚にあげて偉そうに言う父についに私は「自分は無職で養ってもらってるくせに、そんなこと言うのはおかしい」と生まれて初めて口答えをしました。

怯えて従うだけだった娘に反抗されたことに腹を立てた父親は私を殴ろうとしてきました。しかし殴ることはなく、自分の部屋にこもり、床を殴り続けていました。

夏休みも毎日父は家にいました。私は極力父に会わなくて済むように毎日のようにアルバイトをして、そうでない日には学校へ行きました。

「国立大学しか行かせられない」と母に言われた私は、国立大学への進学を見据え日々勉強に励んでいました。

そんな私を見て、父は高卒の自分が大卒の人間の上司であることを自慢して、「いくら勉強したって無駄だ」と何度も私のことを蔑みました。

絶対に父のような人間にはなりたくない。この気持ちは私のみならず、妹達も持っていたものだと思います。

そしてこの半年間は父の扶養に入っている私達子供は保険証がありませんでした。

そのため、高熱が出ても病院に行くことができず、母に「ごめんね、ごめんね」と言われる度に心が押し潰されそうでした。

 

やがてハローワークで仕事をみつけてきた父は働き始めましたが、どの仕事もあまり長くは続きませんでした。一番短いものでは3日で辞めていました。

無駄にプライドの高い父には新しい環境で初心者として働くことが難しかったのだと思います。

 

やがて私は高校3年生になり、受験に向けてより一層勉強に打ち込むようになりました。

父は家族の中で空気のような存在になり、息子しか話し相手がいなくなりました。

その息子も父に怒られることが怖くて相手をしていただけですが。

父と母はほぼ同時に家にいることがなく、あっても一言も言葉を交わしませんでした。

私は母に父との離婚をしきりに勧めましたが、どうやら父は母の兄弟に対して借金があるらしく母はなかなか頷いてはくれませんでした。

 

無事国立大学に合格して、私は家を出ていくことになりました。

貸与と給付の奨学金を得ることで、親からの仕送りが一切なくても暮らせることになり、母は本当に嬉しそうでした。

私も母の負担をできるだけ軽減できて、嬉しかったし誇らしかったです。

引っ越しの前夜、父は突然私にフライパンや鍋、包丁やまな板の入った袋を渡してきました。

フライパンや鍋は私の嫌いなピンクで、父と私がいかにコミュニケーションを取っていないかわかりました。

全部要らないと置いていこうとする私に母がまな板と包丁くらい持っていけ、と食い下がったため仕方なくその2つだけ新居に持っていくことにしました。

大学は本当に楽しく、一人暮らしもとても自由で本当に楽しかったです。

実家にいた頃のように父のことを意識しなくても、自分の好きなように生活できることが嬉しくてたまりませんでした。

時々妹や母から父に関する愚痴の電話が来て、その度に自分だけ抜け出したことに罪悪感を感じました。

 

そんな楽しい1年の終わりの期末試験が1週間後に迫ったある日、休み時間に突然母から電話がかかってきて、父が自殺しているのが見つかったと告げられました。

授業を早退し、実家の最寄りに着く最終電車に間に合わせるために急いで数日分の服と喪服を持ってバスに乗りました。

翌日入棺式の際に父の遺体と対面しました。

約半年ぶりに見る父の顔は死後数日経っているために青くなっていました。

憎しみ、怒り、呆れといった感情が先行して、一粒の涙も最後まで流すことはありませんでした。

 

4人の子供を突然女手ひとつで養うことになった母の憔悴ぶりは見るのも悲しかったです。

そして母は、父の自殺は自分が離婚を申し出たからだ、と自分を責めていました。

しかし葬式の数日後に生前父が働いていた会社を訪れると、父が仕事で重大なミスを犯してから無断欠勤していたことがわかりました。

私はまた父に対して心底呆れました。

なんて無責任な人間なのだろうか、と。

百々のつまり、父には1000万円ほどの借金があったのです。

 

こうして父は最後にして最大の迷惑をかけて死んでいきました。

母は「死ぬ勇気があるなら、生きたらよかったのに...」と言っていましたが、私はそうは思いません。

なぜなら、生きることの方が死ぬことなんかよりも何倍も、何千倍も大変だと思うからです。

生きている人間ならみんなわかっていることですが、生きる事にはお金がかかるし、嫌なことだってやりたくないことだってあるはずです。

どんなに辛くても苦しくても生きて、生きて、生きているのに、全ての責任を放棄して死んでいくなんてあまりにも無責任すぎると思うのです。

だから私は父は家族を養う責任から、借金を返済する責任から、業務上のミスを謝罪し立て直す責任から、そんな全ての責任から「逃げた」のだと思っています。

父は生命保険に入っていなかったため、保険金で家族を救う、などという感動のストーリーは存在しません。

我が父ながら、情けなくて恥ずかしくて仕方がないです。

そんな人間の血が流れていると思うだけで、吐き気がします。

私は決してあんな人間にはならない、と以前より強く思っている今日この頃です。

 

死者を悪く言うのは良くないとされていますが、父にはそんな気遣いさえする気になりません。

できることならもう100回くらい死んでほしいとさえ思います。

私達家族の生活は以前にも増して困難なものになっています。

1000万円の借金は私達の生活に大きく深い影を落とすことになりました。

私はきっと一生父のことを許すことはできないと思います。

 

世の中には様々な理由で自殺する人がいると思います。

恋破れて自殺する人、いじめられて自殺する人、受験に失敗して自殺する人、仕事に疲れて自殺する人、私はそんな人たちに同情することはできても、許すことはできないと思います。

死ぬこと以外に逃げる方法があったのではないか、なぜそんな人に迷惑のかかる逃げ方を選んでしまったのか、私にはわかりません。

 

父の自殺は私達の生活を厳しくしましたが、これを理由になにかを諦めることはしたくありません。

自分のやりたいことは自分の力で勝ち取って、恥ずかしがらずに泥臭い努力をして、こんなことで私の人生を狂わせはしないと、そう強く思っています。