「セメントの記憶」を観て
今日、渋谷のユーロスペースにて明日まで公開されている「セメントの記憶」を観てきました。
もしかしたらネタバレ要素を含むかもしれません。ご注意を。
毎月1日は映画の日、ということで誰でも1,100円で観れるそうなのですが、GWでもきちんと1,100円でちょっぴりお得感がありました。
そんなことはさておき、とにかく観れてよかった、の一言に限ります。
自分の感じたことをうまく言葉にできない己の未熟さが悔しくてなりませんが、百々の詰まりそういうことです。
ドキュメンタリーということもあって実際の映像(という言い方でいいのかわからない)が使われていて、本当にリアリティーがありました。当たり前ですね。
映画館ということもあって音に立体感があり、臨場感がありました。言ってること同じですね...。
お分かりいただけたようにうまく言葉にできません。
ただ、何度も映されるシリア人労働者達の瞳に私は「諦め」を見ました。
祖国が、家族が、友人が、戦争によって消えていくという現実を、祖国から離れた場所で地下に住みながら日々労働するという現実を、悲観するでもなく、抵抗するでもなく、そこにあるのはただ諦めだけであるように感じました。
そしてその空虚を見つめる眼差しに私はすっかり悲しくなってしまいました。
その目に「生きる」という強い意思が感じられませんでした。
ただ、生きているから労働をし、眠り、また労働をする、そうやって生活している、そんな怠惰さえ感じました。
その姿は私が勝手に思い描いていたシリア人労働者の姿とは全く違うものでした。
もちろんその労働者像とは私が自分勝手に、自分に都合よく作り出したものに過ぎないのですが。
戦争のシーンでは爆弾が落下する映像や戦車が発砲する映像、崩壊した建物に生き埋めにされた人々、泣き叫ぶ子供達。
それらすべての圧倒的な威力を前に目を閉じ、耳を塞ぎたくなりました。
「怖い」そして、こんな経験をした人たちが「可哀想」であると感じました。
このごく当たり前のようにも感じる「可哀想」という心の動き、私はどうにも好きになれません。
うまく表現できませんが、上から目線というか、とにかく可哀想と思う自分に腹が立ってなりません。
この不快感はどこから来るのか、今のところの私の結論は主体性のなさ、といったところでしょうか。
自分とは毛頭関係のないことだと考えているような感じがするから嫌なのかな、もしかしたらそうかもしれない、くらいの結論ですが。
と、同時に「可哀想」で終わってはいけないんだと強く思います。
そう感じるなら何かしなくては、とすぐに行動に移したくなります。
でも何を?
それを探すことが私の大学での大きな目標なのかもしれません。