迷うこと
昨日、自分の今後の計画を見直したときにこれまでは完璧だと思えたはずが突然間違いだらけに思えてしまい、わからなくなってしまいました。
これまでは、大学在学中に半年間の語学留学をして4年間で卒業し、そのまま今の大学の院に入学して夏から1年間留学して院自体は1年半で早期卒業するという計画でした。
この計画だとトータル5年半で修士号まで取れるので授業料も抑えられると思っていましたが、昨日2つの疑問点が出てきてしまいました。
まず1つ目は「1年間の留学は必要か」というものです。
院で1年間留学することで実際に院に通うのは半年間だけになります。本当にそれでいいのかわからなくなりました。
しっかりと研究したいのなら留学して修論書いて終わり!というこの計画はあまりにも適当すぎる気がしてなりません。
本当に1年間の留学が必要なのだろうか?
海外経験が少ないというコンプレックスから長期留学に固執しすぎているのではないか?
しかし、留学が効果的なのは1年以上というのも言われたし...、と何に重きを置けばいいのかさっぱり見当もつきません。
そして2つ目は「この大学の院でいいのか」というものです。
正直私の研究したいことはこの大学院では研究が難しいです。
専門の教授もいないし、授業もありません。
しかし、ほぼ確実に合格できる、早期卒業できる、留学できる、友達とも一緒、ということでなんとなく進学するつもりになっていました。
改めて考えてみると、やりたいことがやれないのにいいのか?
そのメリットって何にとってのメリットなの?
とまたわからなくなる。
自分が何に重きを置きたいのかを見つけられないと永遠に悩み続けることになりそうな予感がします...
自分の理想を追い求めるだけなら楽なのになあ。
貧乏は大学に行けない、は本当なのか?
ついに10連休が終わろうとしていますが、ここ数日の連勤ですっかり心が荒んでいるので、明日から学校だと思うと嬉しいです...笑
さて、今回はタイトルにあるように「貧乏は大学に行けない、は本当なのか?」ということについて考えていきたいと思います。
この問いに対する私の答えはNOです。
正しくは、「賢くない貧乏は大学に行けない」であると私は考えています。
かなり言い方が悪いですが、ここでいう「賢くない」とはそもそも経済的に困窮している人に対する支援制度を知らなかったり、それらの制度を利用するための成績要件を満たせなかったりすることを指しています。
自分のことを自慢しているように聞こえるかもしれませんが、私は貧乏でも今こうして大学に通えています。
そして私のような方法で大学に通っている人もそれなりにいると思います。
以下少し長くなりますが、参考までに私のケースを例に挙げたいと思います。
私の家が貧乏になったのは私が高校に入学する準備をしていた時期でした。
大学に進学することを見据えて、家から遠いけれどほぼ全員が大学に進学するような高校に進学しようとしていた矢先に大黒柱だった父親が無職になったのです。
母親には進学せずに就職することを勧められました(きっとそうした方が母としては嬉しかったのでしょう)が、なかなか自分の意思を曲げない私についに折れて「国公立大学なら行ってもいいよ」と約束してくれました。
しかしその日の生活費さえままならない借金生活のなかで予備校に通うこともできませんでした。
そして私の通っていた高校はほぼ全員が大学進学しますが、そのうち国公立大学は10%くらいでした。
その当時の私の成績はちょうど真ん中で、国公立大学が狙える上位10%からは程遠い状態でした。
まずは上位10%に入ることを目指し、がむしゃらに勉強に励み始めました。
同時進行で奨学金についても情報収集を始めました。
少し検索すればわかりますが、日本学生支援機構をはじめ、地域の育英会や企業、新聞奨学生など世の中には様々な支援制度が存在しています。
そしてそれら全てには年収や成績等の要件が存在していました。
私は県の育英会の奨学生になることを目指し、1年生の頃から平均評定も意識していました。
さらに奨学金がもらえるようになるのは5月からであることを知り、引っ越しや教科書購入などの初期費用の貯金も始めました。
アルバイトは原則禁止であったため、長期休みのみ許可証を貰い(ここでも成績が要件でした)、働けるだけ働き、そのお金を少しずつ貯めていきました。
このときに貯めたお金はのちに引っ越しの初期費用に充てました。
これを3年間続け、奨学金獲得のために保っていた平均評定が志望大学の公募推薦の応募要件を満たしており、担任の勧めもあり、受けたその公募推薦で合格することができました。
そして狙っていた育英会の奨学生になることもでき、年収要件を満たしていたので日本学生支援機構の第一種奨学金の満額を借りることもできました。
この二種類の奨学金を借りることで、アルバイトをせずとも派手に贅沢をしなければ十分に暮らしていける額のお金が毎月手に入ります。
そして、大学に進学するにあたり入学金と授業料の免除を申し込みました。
私の通う大学では授業料が最大で半額免除になりました。
父親が自殺してからはいっそう家計が苦しくなったので、学費も自分で払うために第二種奨学金月2万円も併用しています。
以上が私のケースです。大学入学当時から親からの仕送りは一切受けずとも、不自由なく生活できています。
娯楽に使うためのお金は週末にアルバイトをして稼いでいるため、周りと同じように友達と遊んで、外食をして、とそんな暮らしができています。
ですので、私と同じようにお金がないけれどどうしても大学に行きたいという方は、
・国立大学を目指す(公立は出身県以外だと入学金が高いことが多いため)
・学業に支障がないレベルで高校のときにアルバイトして貯金をしておく(長期休みがおすすめ)
・はやいうちから奨学金(特に給付)について情報収集をきちんとする
・進学する大学はできれば都市部を避ける(生活費がかなり違います)
以上のことを参考になさってください。
さて、話を戻すと制度をうまく利用するには人並みかそれ以上に勉強ができることは必要になるのです。
そこで出てくるのは「それができない人は見捨てていいのか?」という問題ですね。
私は、「見捨てていい」と思います。
そこで多額の奨学金を借りて大学に行くことができても、所詮はいつかは返さなくてはいけない借金です。
この壁を乗り越えることができない時点で、奨学金返済が既に少し難しいのではないかと思います。
もちろん労働と勉強は違いますが、全く違うとも言い切れません。
成績要件自体は不可能なレベルのものではないことが多いです。
人より少し頑張れば、学校の成績は簡単に上がります。
そこで頑張れない人に制度を批判する資格はないと思います。
お金がないから大学に行けない!と言う人は相当な甘ったれだと思います。
本当に行きたいならやれることがたくさんあると思います。
環境のせいにして、社会の構造のせいにして、努力しないことを正当化するのは間違っています。
努力でなし得ないこともたくさんありますが、少なくとも大学進学に関しては努力が通用します。
だから、もし、この記事を読んでいるあなたが恵まれない環境で大学進学を夢見ているなら、諦めずにありとあらゆる突破口を探して、がむしゃらに努力して欲しいです。
文句はそれから言いましょう。
貧乏暇なし、
文句を言って、改善策を考えない時間なんて勿体ないと思いませんか?
「セメントの記憶」を観て
今日、渋谷のユーロスペースにて明日まで公開されている「セメントの記憶」を観てきました。
もしかしたらネタバレ要素を含むかもしれません。ご注意を。
毎月1日は映画の日、ということで誰でも1,100円で観れるそうなのですが、GWでもきちんと1,100円でちょっぴりお得感がありました。
そんなことはさておき、とにかく観れてよかった、の一言に限ります。
自分の感じたことをうまく言葉にできない己の未熟さが悔しくてなりませんが、百々の詰まりそういうことです。
ドキュメンタリーということもあって実際の映像(という言い方でいいのかわからない)が使われていて、本当にリアリティーがありました。当たり前ですね。
映画館ということもあって音に立体感があり、臨場感がありました。言ってること同じですね...。
お分かりいただけたようにうまく言葉にできません。
ただ、何度も映されるシリア人労働者達の瞳に私は「諦め」を見ました。
祖国が、家族が、友人が、戦争によって消えていくという現実を、祖国から離れた場所で地下に住みながら日々労働するという現実を、悲観するでもなく、抵抗するでもなく、そこにあるのはただ諦めだけであるように感じました。
そしてその空虚を見つめる眼差しに私はすっかり悲しくなってしまいました。
その目に「生きる」という強い意思が感じられませんでした。
ただ、生きているから労働をし、眠り、また労働をする、そうやって生活している、そんな怠惰さえ感じました。
その姿は私が勝手に思い描いていたシリア人労働者の姿とは全く違うものでした。
もちろんその労働者像とは私が自分勝手に、自分に都合よく作り出したものに過ぎないのですが。
戦争のシーンでは爆弾が落下する映像や戦車が発砲する映像、崩壊した建物に生き埋めにされた人々、泣き叫ぶ子供達。
それらすべての圧倒的な威力を前に目を閉じ、耳を塞ぎたくなりました。
「怖い」そして、こんな経験をした人たちが「可哀想」であると感じました。
このごく当たり前のようにも感じる「可哀想」という心の動き、私はどうにも好きになれません。
うまく表現できませんが、上から目線というか、とにかく可哀想と思う自分に腹が立ってなりません。
この不快感はどこから来るのか、今のところの私の結論は主体性のなさ、といったところでしょうか。
自分とは毛頭関係のないことだと考えているような感じがするから嫌なのかな、もしかしたらそうかもしれない、くらいの結論ですが。
と、同時に「可哀想」で終わってはいけないんだと強く思います。
そう感じるなら何かしなくては、とすぐに行動に移したくなります。
でも何を?
それを探すことが私の大学での大きな目標なのかもしれません。
自殺は逃げだと思う
私の父は自殺しました。
昨年、テスト期間の真っ只中に知らされた突然の訃報に私がまず抱いた感情は「悲しみ」でも「驚き」でもなく体の力が一気に抜けてしまうほどの「呆れ」でした。
父と母の関係はとても良いとは言えないものでした。
家族全員でのお出掛けも父と母が言い争っていることがまず思い出されます。
息が詰まるような沈黙に押し潰されそうになりながら、じっと黙って後部座席に座っていたことが今でも思い出されます。
仲は良くなかったけれど、2ヶ月に1度大喧嘩をする以外には特に困ったことはありませんでした。
最も、父は怒ると物に当たる質だったため、壁がへこんだり、テーブルに穴が開いたり、クローゼットが壊れたりすることはありました。
パパっ子だったはずの私にとって、いつの間にか父は従わなくてはいけない怖い存在になっていました。
母が家にいないときには父の顔色を伺いながら母の代わりを務め、それでも時たま激しく叱られることがありました。
私の中で父に対する憎しみが生まれたのはこの頃からだったと記憶しています。
そんな日々が終了したのは、まだ春の訪れは遠い2月のことでした。
突然父が会社を辞め、2週間ほど姿を消したのです。
この春から高校への進学が決まっている私と同じく春から中学生になる妹を抱え、母は途方にくれていました。
父の会社の人間が毎日のように家に訪れ、父の居場所を尋ねました。
私たちにもわからないのに。
父が会社を辞めた理由は「社長と反りが合わないから」だと聞きました。
5人の家族を支える大黒柱がそんなに簡単に仕事を辞めるのか、と驚いたことを今でも覚えています。
反りが合わないことは勤めていく上でかなりの障害になることは承知していますが、一端の大人なら転職先を見つけてから辞めるのが筋なのではないか、会社を辞めるときに私達家族のことを考えていたのだろうか、父に対する怒りの感情が私のなかで沸々と煮えたぎるも、やはり父は私にとって本当に怖い存在で面と向かって非難することはできませんでした。
父は仕事を辞めてから約半年間完全に無職でした。
これでは家族が暮らしていけないと危機感を感じた母はパートを辞め、正社員としてフルタイムで働き始めました。
それだけでは足りないと、夜にはコンビニで働き、朝に帰ってきては疲れた顔で朝ごはんを作ってくれたのを思い出す度に今でも涙が止まらなくなってしまいます。
母は誰の目から見ても明らかに窶れていきました。
そんな母を横目に毎日朝から酒を飲んで煙草を吸って一日中テレビやら暖房やらをつけっぱなしで過ごしている父が憎くて憎くて仕方ありませんでした。
「お前なんか死んでしまえ」と心の中で幾度となく唱えました。
忙しい毎日でも母はご飯をきちんと作ってくれました。それなのにそのご飯を「こんなもの食えたもんじゃない」「あいつはバカだ」などと自分のことを棚にあげて偉そうに言う父についに私は「自分は無職で養ってもらってるくせに、そんなこと言うのはおかしい」と生まれて初めて口答えをしました。
怯えて従うだけだった娘に反抗されたことに腹を立てた父親は私を殴ろうとしてきました。しかし殴ることはなく、自分の部屋にこもり、床を殴り続けていました。
夏休みも毎日父は家にいました。私は極力父に会わなくて済むように毎日のようにアルバイトをして、そうでない日には学校へ行きました。
「国立大学しか行かせられない」と母に言われた私は、国立大学への進学を見据え日々勉強に励んでいました。
そんな私を見て、父は高卒の自分が大卒の人間の上司であることを自慢して、「いくら勉強したって無駄だ」と何度も私のことを蔑みました。
絶対に父のような人間にはなりたくない。この気持ちは私のみならず、妹達も持っていたものだと思います。
そしてこの半年間は父の扶養に入っている私達子供は保険証がありませんでした。
そのため、高熱が出ても病院に行くことができず、母に「ごめんね、ごめんね」と言われる度に心が押し潰されそうでした。
やがてハローワークで仕事をみつけてきた父は働き始めましたが、どの仕事もあまり長くは続きませんでした。一番短いものでは3日で辞めていました。
無駄にプライドの高い父には新しい環境で初心者として働くことが難しかったのだと思います。
やがて私は高校3年生になり、受験に向けてより一層勉強に打ち込むようになりました。
父は家族の中で空気のような存在になり、息子しか話し相手がいなくなりました。
その息子も父に怒られることが怖くて相手をしていただけですが。
父と母はほぼ同時に家にいることがなく、あっても一言も言葉を交わしませんでした。
私は母に父との離婚をしきりに勧めましたが、どうやら父は母の兄弟に対して借金があるらしく母はなかなか頷いてはくれませんでした。
無事国立大学に合格して、私は家を出ていくことになりました。
貸与と給付の奨学金を得ることで、親からの仕送りが一切なくても暮らせることになり、母は本当に嬉しそうでした。
私も母の負担をできるだけ軽減できて、嬉しかったし誇らしかったです。
引っ越しの前夜、父は突然私にフライパンや鍋、包丁やまな板の入った袋を渡してきました。
フライパンや鍋は私の嫌いなピンクで、父と私がいかにコミュニケーションを取っていないかわかりました。
全部要らないと置いていこうとする私に母がまな板と包丁くらい持っていけ、と食い下がったため仕方なくその2つだけ新居に持っていくことにしました。
大学は本当に楽しく、一人暮らしもとても自由で本当に楽しかったです。
実家にいた頃のように父のことを意識しなくても、自分の好きなように生活できることが嬉しくてたまりませんでした。
時々妹や母から父に関する愚痴の電話が来て、その度に自分だけ抜け出したことに罪悪感を感じました。
そんな楽しい1年の終わりの期末試験が1週間後に迫ったある日、休み時間に突然母から電話がかかってきて、父が自殺しているのが見つかったと告げられました。
授業を早退し、実家の最寄りに着く最終電車に間に合わせるために急いで数日分の服と喪服を持ってバスに乗りました。
翌日入棺式の際に父の遺体と対面しました。
約半年ぶりに見る父の顔は死後数日経っているために青くなっていました。
憎しみ、怒り、呆れといった感情が先行して、一粒の涙も最後まで流すことはありませんでした。
4人の子供を突然女手ひとつで養うことになった母の憔悴ぶりは見るのも悲しかったです。
そして母は、父の自殺は自分が離婚を申し出たからだ、と自分を責めていました。
しかし葬式の数日後に生前父が働いていた会社を訪れると、父が仕事で重大なミスを犯してから無断欠勤していたことがわかりました。
私はまた父に対して心底呆れました。
なんて無責任な人間なのだろうか、と。
百々のつまり、父には1000万円ほどの借金があったのです。
こうして父は最後にして最大の迷惑をかけて死んでいきました。
母は「死ぬ勇気があるなら、生きたらよかったのに...」と言っていましたが、私はそうは思いません。
なぜなら、生きることの方が死ぬことなんかよりも何倍も、何千倍も大変だと思うからです。
生きている人間ならみんなわかっていることですが、生きる事にはお金がかかるし、嫌なことだってやりたくないことだってあるはずです。
どんなに辛くても苦しくても生きて、生きて、生きているのに、全ての責任を放棄して死んでいくなんてあまりにも無責任すぎると思うのです。
だから私は父は家族を養う責任から、借金を返済する責任から、業務上のミスを謝罪し立て直す責任から、そんな全ての責任から「逃げた」のだと思っています。
父は生命保険に入っていなかったため、保険金で家族を救う、などという感動のストーリーは存在しません。
我が父ながら、情けなくて恥ずかしくて仕方がないです。
そんな人間の血が流れていると思うだけで、吐き気がします。
私は決してあんな人間にはならない、と以前より強く思っている今日この頃です。
死者を悪く言うのは良くないとされていますが、父にはそんな気遣いさえする気になりません。
できることならもう100回くらい死んでほしいとさえ思います。
私達家族の生活は以前にも増して困難なものになっています。
1000万円の借金は私達の生活に大きく深い影を落とすことになりました。
私はきっと一生父のことを許すことはできないと思います。
世の中には様々な理由で自殺する人がいると思います。
恋破れて自殺する人、いじめられて自殺する人、受験に失敗して自殺する人、仕事に疲れて自殺する人、私はそんな人たちに同情することはできても、許すことはできないと思います。
死ぬこと以外に逃げる方法があったのではないか、なぜそんな人に迷惑のかかる逃げ方を選んでしまったのか、私にはわかりません。
父の自殺は私達の生活を厳しくしましたが、これを理由になにかを諦めることはしたくありません。
自分のやりたいことは自分の力で勝ち取って、恥ずかしがらずに泥臭い努力をして、こんなことで私の人生を狂わせはしないと、そう強く思っています。